教育ごっこ(鈴木 2017)とは言い得て妙

鈴木宏昭 (2017) 教育ごっこを超える可能性はあるのか?-身体化された知の可能性を求めて-. 大学教育学会誌, 39(1): 12-16

 

大学教育において、目標を明示し”過ぎる”ことや、学生に教え”過ぎる”ことの功罪を、あらためて考えています。鈴木 (2017) が引用している生田 (1987) の『「わざ」から知る」』に書かれているように、自らが強く希求し、模倣を通じて学ぶことの価値は大きく、理論化しづらいその過程にこそ、人が学ぶことの尊さが埋め込まれていると思うのです。

鈴木 (2017) が言うところの「教育ごっこ」とは、「現実的に考えてその教育が極めて困難であるにもかかわらず、目標の分解を通したスモールステップ方式でそれが可能と考えて行われる教育のこと」であり、わたしの直観的な理解だと「小手先に寄り過ぎた深淵でない教育」というところでしょうか。これからの発展への繋がりがみえないという点で、そうした教育は本物ではないように感じられ、自分の授業がそうなっているのではないかという怖さも同時に抱きました。

「大学が、またそこで働くものが、ほかの教育期間、そこで働く人たちと異なるのは、学問という美しい体系を生み出そうとするからであり、またそれを行ってきた偉人、その業績に触れ、感動を味わった人がいるという点にあるのではないだろうか。」という鈴木 (2017) の問いにじんわりと感動し、新しい気づきを得たわたしもまた、日々、「その人の考え方が好き」という気持ちに支えられて学び続けているのだと、あらためて実感。

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